「成長」という言葉が嫌い
必死な人や真面目な話に対して「なんかダサい」「気持ち悪い」という感情を持ったり、抵抗感を抱く人は多いのではと思います。
以下のような事は無気力至上主義のような共通する感情に起しているのではないでしょうか。
・中学の英語の授業で発音がめっちゃ良い奴を馬鹿にする
・体育の授業で必死にならない
・「意識高い系」の大学生を馬鹿にする
・友達どうしで政治の話題を避ける
・逆に無気力がかっこいいと思う
・「成長」という言葉がカルトっぽく聞こえる
私は就活をするまで「成長」という言葉が気持ち悪くて大嫌いでした。
そんな自分の就活の軸は「自己成長」
今思うと、私は学生時代から無気力キャラで、本気出せば出来ると信じてた。
さらには友達がいない時は「友達」って言葉を気持ち悪いと思っていた時さえありました。
「成長」を忌避していたのも、無気力キャラな自分の悪い習慣だったのかもしれないと思ってきています。
(でも私は無気力キャラは今後も維持していきたいのかな。)
こういう無気力至上主義(不真面目至上主義)ってどこからやってくるのでしょうか?
私の場合は、本気で勝負する事に対する「逃避」の感情だったと思います。
一方で、「成長」という言葉はやはりカルト的だと思う、理性的な考えもあります。
実際、私が「成長」を考えらきっかけとなった就活という物が気持ち悪いと言われたり、批判されたりしますよね。
ワークライフバランスが主張されてきたり、仕事第一の社会も変わりつつある事が背景にあると思います。
「就活狂想曲」
そもそも問題は、「成長」という考えの前提条件として
人間丸ごとの価値に優劣がある
という考えがある事が、議論の争点になりうるのかなと思います。
これから、自分自身がどう考えてどう生きていくのか
人間そのものを成長させたい
単純にそう考える前に、
この背景にある自分の考え方
①真面目さを嘲笑する無気力至上主義
②人間の価値の多方向性を認識する考え
を整理する必要があると思います。