クズ人間度セルフチェック表
悪人とクズ
「悪人」と「クズ」と言われる人
というのは、含みが違いますよね。
自分的にわかりやすい例が「カイジ」
「悪人」は兵藤会長や利根川など帝愛グループの人たち
「クズ」は、カイジなど債務者たち
またカイジの中では、利根川などの優秀とされる人たちはとても冷酷に描かれています
これを見て、簡単に定義するとこういう事だと思っています
悪い人=理性的な悪意を持って他人に損害を与えている人
クズ=人間的弱さによって他人に損害を与えている人
カイジは登場当初金持ちの車にいたずらするなど、他人に損害を与える行為をしていました。
その行為は確かに「悪意」とも言えますが
腹いせという反理性的で、無意味なもので、精神的な弱さから発したものだと考える事ができます。
対して利根川や兵藤会長は、その目的は私欲のためといえど理性的な悪意です。
全く違った行動原理で他に損害を与えている。
この違いはなんなんでしょうか。
クズと適応機制
「車へのいたずら」行為はカイジの置かれた不利な状況(金がない)から、発する行為であると思います。
金がない、という鬱憤を晴らすため
冷静に考えて無意味な行為です。ではなぜこんなことをしてしまったのか。
このようなもののヒントとして、昔保健体育の授業で習った適応機制(防衛機制)というものが考えられると思います。
Wikipedia 「防衛機制」(2017年7月15日取得)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/防衛機制
防衛機制(ぼうえいきせい、英: defence mechanism)とは、受け入れがたい状況、または潜在的な危険な状況に晒された時に、それによる不安を軽減しようとする無意識的な心理的メカニズムである。
人間が困難に遭遇した時、自身の精神を保護するために一時的な応急手段として行動されるものです。
それがどんなものなのか。適応機制には「分類」がありますよね。
実際保健体育の授業でならったものとか。見ていきましょう。
(①〜⑧まであります。一言で説明しています。)
①攻撃…やつあたりですね。リストカット等自傷行為もこれにあたるそうです。
②抑圧…嫌なことを忘れる事です。人間は嫌なことは忘れるように出来ているという話聞いたことあります。
③昇華…性欲などの暗い欲求を芸術などの高尚なところへ持っていく事、だそうです。イメージわきません。
④逃避…(現実)逃避です。
⑤補償…本来達成したい目標と別のところで満足しようとする事。
⑥同一化…クラスのイケメンが自分と同じ失敗してたら安心する、とかですかね。教科書とかには「カリスマの真似をする行為」と。
⑦合理化….「自分に言い訳をする」というこういだとの思います。
⑧退行…赤ちゃんがえり、などだと。他人に同情を求める、優しくしてもらうためかな
また、この八つと適応機制も逃避機制・攻撃機制・防衛機制に分類されるという話もありました。
調べれば調べるほど、色んな分類や見方があってよく分からなくなりますね。
取り敢えず上記で考えてみます。
こういった適応機制の問題点は
一時的な解決にしかなっていない、根本的解決には繋がらないということです。
この結果、クズと呼ばれる人たちはその「弱さ」から
自分の状況を打破できない。
場合によってはそれによって他者に迷惑をかけてしまうという事だと思います。
これに対するものとして合理的機制という言葉があります。
現状の課題点を認識し受け止め、その解決のため合理的で具体的な解決策を見出すということです。
困難に直面しても、いかに適応機制に惑わされずに合理的な決断をし努力できるか。
それがクズとそうでない人との別れ道なのではないでしょうか。
クズ人間度セルフチェック表を作ってみる
防衛機制をヒントに、クズ というものを考えてみました。
さて何を隠そう、私はクズ人間です。
そんな自分をどうにかしたい、変えたいと思った時
目指すべきは「合理的機制」ですね。
そのために自分の適応機制がどのように働いてきたかを認識する必要があるのではと思っています。
今回は自分自身の経験に基づいて、それを軸に適応機制チェック表を作っていきたいと思います。
①攻撃
・腹がたつとモノに当たる
・耐えられない状況のとき、頭を壁にぶつけたりする
・むしゃくしゃしたとき、関係ない友人や血縁者を殴る
②抑圧
・学生時代(など)が、つまらなすぎて・辛すぎて覚えていない。リアリティがない。
・直面しなければいけない嫌なことを意識的に忘れようとする
・イマジナリーフレンドがいる
③昇華…これに関しては悪いことばかりでない
・彼女が出来ないからこそ、部活を頑張った
・セックスばかりやっている男女には分からない美的センスを持っている
・スポーツ・芸術などに人生を捧げてきた。
④逃避
・遅刻してしまう、寝坊してしまった授業や約束を干す
・切迫つまった状況、締め切り前などにゲームや自慰行為をしてしまう
・全てを投げ出してハワイに行く🌺
⑤補償
・劣等感を感じそうになったとき、自分の得意分野で他人を見下そうとする
・あるところでは「こいつには学歴で勝ってる」と思い、またあるところでは「こいつにはコミュ力で勝ってる」と思う
・自分は○○では誰にも負けないと思い続け根拠はない)、他人に見下されても気にない
⑥同一化
・クラスのイケメン、美女が自分と同じ失敗や弱い立場でいて安心する
・アーティストの歌詞に共感して、その上でそのアーティストの魅力を感じ自分自身に投影する
・自分より下の人間を見て安心する。
⑦合理化
・自分に言い訳をする
・言い訳を考えることで頭がいっぱいになる
・認めてもらえなかった対象(不採用になった企業など)の悪いところを探す
⑧退行
・自分の事を悲劇のヒロイン・ヒーローだと思って悦に浸る
・親の前であからさまに幼い行動をとる
・他人に同情される事を想定して行動をする
>>>15点以上はアウト?
小括
適応機制をベースに「クズ度チェック」一応つくってみました。
でも思ったのは、困難のタイプ分けによって
作る方がいいのかなと思ったりしたり。
適応機制は、一時的に身を守るために必要なものだと思います。
でも、できるだけ合理的な判断基準で行動し、クズな自分から脱皮したい。
大切なことは「いま適応機制発動してないかな」と自分を俯瞰的に観察することなのかなと思いました。
そして、合理的な判断を下してそのとおりに行動すること。
そのためには精神の強さ なんてものじゃなく
自分を動かすための工夫を凝らしていくことが、22歳にもなった私のために必要なことだと思います。
侵略戦争の定義はない?
侵略戦争と言う言葉
(だいぶ前ですが)安倍首相が「侵略戦争に定義はない」と国会で発言し議論になった事がありました。
その時からずっと考えていた私の意見について、今回は書きたいと思います
第一次世界大戦以後、国家間の戦争を無くしていくためにパリ不戦条約にて「戦争を引き起こす」ことに対して非難する風潮になりました。
逆に言うとそれまではルールに則っていればあくまで戦争は国際紛争を解決する手段の一つとして認められていた、戦国時代のような状況だったと言うことです。(と思っています)
でも実際どういう「風潮」だったかは政治的な史料に加えて新聞等の生活に近いドキュメント、口述なども加えて分析しない事には分からないのだと思います。
その後、日本は満州事変以降の侵略行為についてこの条約を持って国際的に非難されていた訳です。(?)
そして、第二次世界大戦に至るまで日本は侵略戦争をした側として弾劾された。
問題の安倍首相の発言は日本のこれを否定するものですね。
侵略戦争の定義については、かつて国連で決議がなされております。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/侵略の定義に関する決議
以下のWikipedia より引用
第2条 (武力の最初の使用)
国家による国際連合憲章に違反する武力の最初の使用は、侵略行為の一応の証拠を構成する。ただし、安全保障理事会は、国際連合憲章に従い、侵略行為が行われたとの決定が他の関連状況(当該行為又はその結果が十分な重大性を有するものではないという事実を含む。)に照らして正当に評価されないとの結論を下すことができる。
第3条 (侵略行為)
次に掲げる行為は、いずれも宣戦布告の有無に関わりなく、二条の規定に従うことを条件として、侵略行為とされる。(a) 一国の軍隊による他国の領域に対する侵入若しくは、攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果もたらせられる軍事占領、又は武力の行使による他国の全部若しくは一部の併合
(b) 一国の軍隊による他国の領域に対する砲爆撃、又は国に一国による他国の領域に対する兵器の使用
(c) 一国の軍隊による他国の港又は沿岸の封鎖
(d) 一国の軍隊による他国の陸軍、海軍若しくは空軍又は船隊若しくは航空隊に関する攻撃
(e) 受入国との合意にもとづきその国の領域内にある軍隊の当該合意において定められている条件に反する使用、又は、当該合意の終了後のかかる領域内における当該軍隊の駐留の継続
(f) 他国の使用に供した領域を、当該他国が第三国に対する侵略行為を行うために使用することを許容する国家の行為
(g) 上記の諸行為に相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装した集団、団体、不正規兵又は傭兵の国家による若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与
(*割とウィキペディア信用してます。)
しかしながら、この議決は「侵略行為が行われたとの決定が他の関連状況(当該行為又はその結果が十分な重大性を有するものではないという事実を含む。)に照らして正当に評価されないとの結論を下すことができる。」つまり、
侵略戦争かどうかはその都度判断します〜
てきな曖昧さがあります。
Invasion とAggressive war
つまり、侵略戦争という言葉に定義はない?のかな
それに対する明確な反論をしてくれているのがこちら
togetterまとめ 「侵略戦争の定義は決まっていないとう詭弁について」
こちらでは「侵略」という言葉を英語訳して、
・aggressive
・invasion
の違いがこの議論の裏にあると説明しています。
侵略戦争は、英語でaggressive war。
Invasionに対しては、領土を犯すという明確な定義があるという主張です。
要は侵略戦争の定義(aggressive war)は問題でなく、日本は侵略(invasion)をしたという事が問題だという事です。
まあ、言葉の定義だとか条約だとか云々とかは私はあまり知識量がありません。
こういう事を先に言ってしまうのは甘え、というのがあるのでしょうが…
生半可な知識で語るのも恐れ多いです。
この議論の本質とは?
ゴチャゴチャとややこしいのですが、
ズバリこれは善悪論の問題です。
まあ文章を書いている体力も切れてきたので、
自分の主張を述べてしまうと
「侵略戦争」という言葉の裏には、「侵略戦争=悪、自衛戦争=善」という含みがある。つまり、善悪二元論的な考えを前提とした言葉である。
「侵略戦争」という言葉を否定する人たちはそれに対して反発をしている。
という事です。
実際、先の大戦は極東裁判の結果「日本が(全部)悪い」とされた訳です。この裁判でアメリカ人は一人も処罰されていないし、(単純に国際法に照らし合わせて)明らかな戦争犯罪である原爆投下やドレスデン爆撃も処罰されていない。
明らかに善悪二元論による判断を下されています。
これをどう見るか、という議論ですね。
大きく
・勝者こそ正義の理論が通された
・道義的に日本が悪だから裁かれた
という考え方に分かれると思います。
一方、非常に冷静な見方としては、
・この裁判を、国際法に照らした秩序立った世界をつくる布石とするためには、英米も平等に罰せなければいけない
という主義もありました。
パール判事とかですね。
まあどう考えてもパール判事が一番正しい人間なのは自明なわけで
ハッキリ言って第二次世界大戦のあと世界が下した判断というのは、それまでの無秩序からなんら進歩のないものだと思います。
戦後の世界はなあなあの欺瞞のまま進んだ。結果冷戦に及んで、アメリカは戦争を続けた。
極東裁判は平和な世の中に寄与した、前進だ、と考えている欧米人は少なくないでしょうが
私は全くそうは思いません。
第二次世界大戦後比較的平和になった感じがするのは日本とドイツが倒れたから、という原因が99%であると。
今の日本で、これに対する評価は非常に曖昧ですよね。
21世紀の歴史教育のなか育った私は、日本の立場は
その見方は日本国民全員の見方に委ねる
というものだと思っています。こういうの多いと思います。
あなたの考えはどうでしょうか。
私は、先にも「どう考えてもパール判事が正しい」と言ってしまいましたが、
まあ善悪二元論なんてのは馬鹿馬鹿しいし、小2で卒業すべきもんだと思っています。
そんなものを国連はいつまでも引っ張っている。
アホばっかなんちゃうかなと
主張したいポイントとしては
第二次世界大戦で5000万〜8000万の死者が出ていて
そこに1%でも連合国側に非があるなら、50万人殺したのと同じだと
少し強引かもしれないけどそう思います。
実際ドレスデン爆撃も東京大空襲も連合国の殺人なわけです。正義のために人殺して許されるなんて論理が通用するかと。
太平洋戦争 植民地既存利益への不満
さて
極東裁判で裁かれなかった、連合国側の「非」というところを具体的に見ていきます。
まず対中国の日中戦争に関しては、日本側はかなり部が悪いと思います。(まあ日本にも弁解すべき点は一応あると思います。)
対欧米の目線でいくと、日本の言い分(?)にも筋が通る部分があると思います。
今回話題としたいのは、日本が中国を侵略していった理由です。
それは一言で言うと「帝国主義だから」と言う事だと私は思っています。
現在の考えで行くとなぜわざわざ侵略したのか理解に苦しみますが、当時の彼らにとっては帝国主義の論理に従って利益を追求していただけという面が大きかったのではないでしょうか。
「国際的な批判を押し切って戦争に突き進んだ」という印象は、ドイツと共通する部分ではあります。
しかし、当時の日本の視点に立って見ると
イギリスやフランスは世界中に植民地などの既存利益を持った状態でパリ不戦条約で一方的に平和宣言をし、「勝ち逃げ」をした訳です。
日本は丁度彼らにならっめ植民地を広げている最中、「やめろ」と言われた。
これは面白くないことですね。
これと同じような事が今の世の中でも起きているのではと思います。例えば北朝鮮の核問題にしても、北朝鮮は「批判してくるアメリカが一番核持ってるやん」と思っているはずです。
このようにして見ると、太平洋戦争は、近代の改革以降帝国主義の道をたどっていった日本の行き着く先として連続した出来事であったように思えます。
また別の章で書きたいですが、日本が太平洋戦争でアジア解放を叫ぶようになった事にも繋がっている事であると思います。
最後に 日本はどうか
あくまで誤解されないようにというか、
私は日本が悪くない、などという風には全く思っていないということを明確に書いておきたいと思います。連合国側の悪を批判しても、悪の反対は正義でない。
悪の反対は悪で、正義の反対は正義だと私は思います。
それどころか
現在の日本人は日中戦争に対する認識という物は非常に甘く、いかに残忍な戦争であったかを目を向けようともしない事は問題だと思います。
南京大虐殺の否定なんてのは論外です。
しかし、私の根底にあることは
大日本帝国が悪の権化でも、その人々の死屍累々の上に私たちの豊かな生活がある。
だからこそ、悪い面とも向き合いながら、あくまでも弁護していきたい
というのが私の考えです。
そういうスタンスのもと、今後も歴史の事について書いていきます。
追記
「要は」とか、「つまり」とかを多用してしまう。
文章力のなさが露見していますね。自分の場合話すトレーニングだと思ってかなり走り書きでやってます。
過去のログも積極的に修正していこうと思っているので、
この辺意味わからないとか、そういうコメントください。
あと、いいたいこと書きたいことを書ききれない感があると感じます。
頭の中でまとまってないから、まとめ直さないと…
同情を求める弱さが抜けない
自分が辛い時にその雰囲気を周りに見えるように出してしまう。
いつもニコニコして周囲のことを思ってる人間はどういう神経なのか理解できない。
恋愛経験がないからなのか
しょうもない人生を送ってきた人間はしょうもない人間にしかなり得ないのかなと思う
真顔でしかいれないのは子供だからか
いつも笑顔でいられないのは人間としてカスだからか
苦労をしてこなかったカスだから
前向きになれないのは三流
自分の人生を100%否定してその上で前向きにならないと人間以下でしかない
中年ニートを見るときの見下した目を自分自身に向けて、その上前向きになって努力する
22年生きてきた人生、カスみたいだったらそれはもう取り返せない
それでも前向きにならないといけない
陰キャラは人間として劣ってる
明るくて周りを見下してて、自分に自信があって、陰キャラにも笑顔で接する
人間の価値
恋愛経験がある人間はない人間より優れてる
恋愛できないのは人間として劣ってる
結局比較でしか自分の幸せを理解できない
言葉を整理してブログかけっての
頭の悪さがにじみ出る
西成出身のヤバそうななお爺さんに…
南海難波駅の構内にサラリーマのオアシスがあります。
そこは二段になっている南海難波駅の、下の方のホームを抜けた所、ナスコプリュス(コンビ二)です。
周辺には南海そばや551のアイスキャンデーなど、店が林立しているのですが、明らかにそのコンビ二は異様なほど繁盛しています。
駅構内だけに小さな店内で、数種類の酒と150円のフランクフルトが大量に売られていて、柱の近くに簡単なテーブル(イスはない)が一つ。
その周りで大勢のスーツを着た人たちがみんな一人で缶ビールやカップ酒を飲んでいます。
無論テーブル一つでは足りず、構内の案内地図板の上やごみ箱の上に缶を置きながら、酒を飲みます。
私もその日、昼飯を抜いて腹が減って、衝動でほろよいとスコーンを買ってしまいそこで飲んでいました。
ごみ箱の近くで飲んでいると、近くに明らかにヤバそうな見た目のお爺さんがいました。
スコーンを貪ってると、鳩と一緒にお爺さん。
寄ってきた。こっちに向かってなんか言ってる。
「チャックあいてますよ」
つい突っ込まざるを得なかったので(私の方から)言ってしまうと、そこから話し込んでしまい、30分くらい喋ってました。
半分くらい何言ってるかわからなかった。
とりあえず分かったことは、
お爺さんは
・西成に住んでる
・生活保護で月12万もらってる
・家賃が5万弱で生活がしんどい
・東北出身で、子供が2人いる
・78歳
・なんかアロハシャツみたいなの着てる
近くの二人組のギャルは奇異な目で見ていた。
帰る頃には手振ってくれるくらい仲良くなった。
西成のジジイっておもろいな。
あそこに住んでいる人たちにも、それぞれ色んな人生を歩んできて、その上でああいう生活を強いられているのだと思うと、なんだか凄く興味が湧いてきた。
自分の卒業論文のテーマが「ライフヒストリー研究」なのですが、その対象を西成のお爺さんに変えてみるのもアリかなぁと思ったり。
青春コンプレックスで悩んでいるあなたへ
高校・大学時代に思うような青春を過ごす事が出来なかった。
甘酸っぱい恋愛を経験出来なかった。
部活に一生懸命になれなかった。
友達がいなかった…
こういった過去をいつまでも引きずってしまう人がいます。
いや、過去(思い出)が「無い」ことを気にしてているという感覚ではないでしょうか。
※耳すまは中学ですけどね(´ω`)
「青春コンプレックス」という言葉があります。
実を言うと、私も一時悩まされました。
まあ、コンプレックスにも度合いがあるでしょうが、一時は重度でした。
危篤状態でした。🛏
私の高校は大阪随一の「自由」で「楽しい」学校で、イケイケの男女が毎日キャッキャウフウフしているリア充高校でした。
なんと素晴らしい学校すぎて、私の高校によくイメージされるような非生産的な地味目の集団すら無かったものです。
その代わり、ぼっちはいたんですね。
私です。
私も、中学の頃は 耳すま みたいなザ・青春を妄想する毎日だったので(※耳すまは中学ですが)暗黒のぼっち時代は尚更一層辛かったです。
しかも周りが他校より一段とキラキラしていたので。周りのみんなは本当に「人生で一番楽しい瞬間を謳歌している」という感じが半端なかった。
高校三年生の時は、青春コンプレックスで引きこもりました。
周囲は青春を終えて受験モードって感じ。
私は暗黒時代を終えてブラックホールって感じ。
その時私が思ったのは、「人生で一番楽しい時間を無駄にした、自分は死んだも同然だ」と。
死のうと思いました。
毎日引きこもって引きこもって、学校サボって川辺で弁当食って、ビニールテープでお粗末な輪っか作りました。
まあ結局自殺はしなかったのですから、その程度の気持ちではあったようです。
毎日引きこもってくよくよ考えているうちに、ふとある時ふっと悟ったんですね。
自分にないのは過去じゃなくて未来だ
と。
これ当時は衝撃的発見でした。パラダイムの変遷🌏
日本社会って普通に生きてたら高校(か大学)が一番楽しいんですよね多分。まあアメリカとかもそうか。
青春がすばらしくて、社会人のおっさんは死んだ顔で満員電車乗ってるのがデフォルトの人生。
私は特に高校がいい所だったので、高校時代(の周囲のヤツ)より楽しい時間を未来に想像できなかった。
それだったら、人とは全然違う人生歩んで、思いっきり振り切った事やって、面白い事やったろと、そう思った時吹っ切れたんですよね。
まあここまで読んで、何しょうもない事で深刻に悩んどんねん と思った方、正常です。
でも、同じように悩んでる人が見て、少しでも変わったらいいと思います。
まあもし同じような悩みを抱えていて立ち直れない程重症なら、いっぺん海外に行ってみる事をお勧めします。
立ち直れない人ってきっと、巨大な後悔とどうしようもない劣等感を抱いてて、時には生きる意味すら見失ってるんです。
でも結局過去は変えられないですから、変えられるものを変えるしか方法は無いんですよね。
そう思えるのに、私の場合は随分と時間をかけてしまいました。
ちなみに、最後の写真はニュージーランドです。
コメントくれたら喜びます。
「成長」という言葉が嫌い
必死な人や真面目な話に対して「なんかダサい」「気持ち悪い」という感情を持ったり、抵抗感を抱く人は多いのではと思います。
以下のような事は無気力至上主義のような共通する感情に起しているのではないでしょうか。
・中学の英語の授業で発音がめっちゃ良い奴を馬鹿にする
・体育の授業で必死にならない
・「意識高い系」の大学生を馬鹿にする
・友達どうしで政治の話題を避ける
・逆に無気力がかっこいいと思う
・「成長」という言葉がカルトっぽく聞こえる
私は就活をするまで「成長」という言葉が気持ち悪くて大嫌いでした。
そんな自分の就活の軸は「自己成長」
今思うと、私は学生時代から無気力キャラで、本気出せば出来ると信じてた。
さらには友達がいない時は「友達」って言葉を気持ち悪いと思っていた時さえありました。
「成長」を忌避していたのも、無気力キャラな自分の悪い習慣だったのかもしれないと思ってきています。
(でも私は無気力キャラは今後も維持していきたいのかな。)
こういう無気力至上主義(不真面目至上主義)ってどこからやってくるのでしょうか?
私の場合は、本気で勝負する事に対する「逃避」の感情だったと思います。
一方で、「成長」という言葉はやはりカルト的だと思う、理性的な考えもあります。
実際、私が「成長」を考えらきっかけとなった就活という物が気持ち悪いと言われたり、批判されたりしますよね。
ワークライフバランスが主張されてきたり、仕事第一の社会も変わりつつある事が背景にあると思います。
「就活狂想曲」
そもそも問題は、「成長」という考えの前提条件として
人間丸ごとの価値に優劣がある
という考えがある事が、議論の争点になりうるのかなと思います。
これから、自分自身がどう考えてどう生きていくのか
人間そのものを成長させたい
単純にそう考える前に、
この背景にある自分の考え方
①真面目さを嘲笑する無気力至上主義
②人間の価値の多方向性を認識する考え
を整理する必要があると思います。
進路
一日飛んでしまいました_(:3」z)_
就職活動、ある人に相談したら説教されたというか、ボロカスに言われて少し凹みました。
就職活動のきつさって、自分自身トータルの能力や価値と向き合う辛さだと思います。
私のようなモラトリアム人間は高校・大学のたあいだ、自分の取り柄のなさに対し、「平等」などという舌触りのいい建前を口実に向き合ってこなかった。
社会人の20%は、自分の事を天才だと思っているらしいですね。
そうやって、「本当の自分は出来るんだ」と思い込む傾向は私も強いです。
でも少なくとも、自分のダメさってのは理性では理解しているんですよね。
でも、自分の「現在」は否定できても、「過去」「未来」を否定するのはキツすぎる。
「過去」はともかく、そろそろ自分の可能性に見切りをつけて、自分の人生に妥協する時期が来たのかなという葛藤に悩まされます。
これが、アイデンティティの確立と言うやつですかね。無限の可能性がある若者、の間は自己がまだ出来てないのかも。
なんか、抽象的すぎますね。
具体的に悩んでいることは、これからどうするかって事です。
・留年するか→可能性を追求する
・ギリギリまで粘るか→見切りをつける
留年するなら…
・ゼミを移るのか
・ゼミに留まるのか
早く決断しなければいけない。