思いつきの掃き溜め

自分の考えとかをアウトプットしてます。気軽にコメントしてね

負け犬の戯言

 

どうも

この時期まで就活してる4回生の負け犬ですお

 

今日電話あって、やっとこさ内定一個もろた

 

父親に「あんまええとこちゃうけど、しゃあないな」と言われる

まあまあショックやったお

 

本当、迷走しまくった自分を支えてくれた父には感謝している

 

と口先でいいつつ愚痴こぼすクズでした。

うぇっ

1ヶ月滞在で感じた中国。日本と違うところ22選

 

1.日本のトイレは小便臭い。中国のトイレはウンコ臭い。

 

2.至る所に警察官がいる

 

3.至る所で持ち物検査がある(とくに北京)。まあまあザル。

 

4.電子マネーが発達している。屋台にもQRコードがある。

 

5.働く人や道行く人が平均的におおらか。悪くいうと雑。

 

6.まあまあ英語通じない。駅員と銀行員くらい

 

7.バカでかい建物だと思うとだいたい銀行。大連中山広場の旧日本建築もだいたい銀行。

 

8.制服組(公務員?)の女性比率が高くて若い。

 

9.ユニクロと無印は高級ブランド

 

10.マクドケンタッキー等ファーストフードは安くない。

 

11.他人でも喋りかける。やたら中国語で話しかけられる。

 

12.スマホのボイスメッセージの使用率高

 

13.赤の他人に「荷物見といて」をやる

 

14.接客がゆるい。ヒマワリの種食いながら接客とかする。

 

15.銀行窓口に利率書いてるアレがある。なかなか良いレート

 

16.並んでる時油断すると抜かれる

 

17.「Ctrip」で大体なんとかなる

 

18.「Yes」という意味の「ドゥイ(对)」という言葉の多用。共感が増してきて力入ってくると「ドゥウエ!ドゥウェエエ!」ってなっていく

 

19.メシはバカうまい。(中華好き)。安い。よくわからんけどうまいやつがいっぱいある。飲茶がうまい

 

20.ビールは常温

 

21.建設・道路工事の多さ。地方都市で顕著(長春とかハルビンとか)

 

22.果物がめちゃ安い。日本の10ぶんの1とか

 

紆余曲折あったけど、結局このブログで発信することにした。

 

ある人に言われた「社会人になったら、アウトプット以外全く評価されない」という言葉から、自分の考えとかを発信しようと始めたこのブログ。

はてなIDが気に入らんくて移行しようと試みましたが結局、このURLで発信する事にしました。

 

僕の意見、持論にまみれた話を中心に、これからやっていきます。

 

帰納的思考と演繹的思考

 

「考え方」には大きく二つあります。

結果から分析する「帰納」と、理論を組み立てて推論する「演繹」です。

私は考える事が好きで、妄想癖があるタイプなのですが、どうやら帰納的な思考を好む傾向にある模様です。

 

その特徴としては

・フィーリングを大切にする

・頭ではまとまってるのに言語化出来ないことが多い

・決断力がなく優柔不断

・感情に左右されると判断を誤りがち

・物事の共通点を見つけるのが好き

 

あくまでも私の事例ですので、どこまで「帰納的思考」と関連があるのかは推測でしかありません。

 

信頼の演繹

一方、数学や科学って基本的には演繹ですし(だよね?)、なんとなく演繹の方が信頼度の高い思考であるように思います。

 

その具体的な手順としては…

まず、演繹的思考は基礎となる理論からスタートして枝葉を伸ばしていく。数学ならユークリッドで、哲学なら「我思うゆえに我あり」で、経済学は合理的経済人がその基礎になる。あと、私が専攻してた社会学ではそういった基礎のことをgrounded theoryと呼ぶ。

枝葉の伸ばし方は三段論法を用いる。三段論法とは、「AならばBである」と「BならばCである」の2つの命題から「AならばC」であるという命題を導き出すやつ。こういったプロセスを追求したものが論理学である。このプロセスに欠陥があると「論理が飛躍してる」と言われたり、このプロセスを作り上げる能力があることと「論理的思考力が高い」こととはほぼ同義であったりする。

詳しいことは『論理トレーニング101選』で。おすすめ。

 

こう言う風にそれぞれの基礎から積み上げられた理屈の体系が各々の学問だと、理解していいと思う。

理系の学問は基礎が揺るぎないものが多く、高く高く積み上げられている。対して文系、とくに社会学などはその積み上げが低く、小さいのが林立しているような感じ。

 

 

前近代的(?)な帰納

対して帰納数学的帰納法を高校で習ったように、科学の方面でも帰納法が用いられることもある。あと、帰納の王様といえば統計学である。近年はインターネット、ビックデータの普及によって統計学が注目の的だ。

 

ただし、統計学以前にも、いわゆる「勘」というやつも帰納的思考の産物であると思う。思う、というかそうである。

よく、テレビ番組の「ほこ・たて」みたいなやつで「熟練の職人vs最先端の科学」みたいなのをやっているのを見る。こーいう熟練の職人の持つ「勘」って、一見全然科学的じゃないように見えるし、科学の方を信頼するほうがより理性的であるようにも思う。

一方、人情として職人を支持したいと思ったり、はたまた職人のほうが勝つこともしばしばある。これは、職人の「勘」って、その人の膨大な記憶された経験から割り出された判断だったりする。

これって、統計学が膨大な数量データから判断するのと同じだ。それがなぜ科学と無縁な感じがするのかは、それがただ言語化されぬまま個人の頭の中でぼんやりと存在する「勘」に留まってるからである。

 

なんか、話が逸れたがつまりは経験と言う名のデータを用いて、人は太古の昔から統計学と似たことを頭の中でやってるのだ。もちろん、統計学と違ってその主観から生じる色々な欠点があったりするが。

 

 

 

それぞれのメリットデメリット

 

演繹的思考は信頼度が高い。2つの命題が真なら、3段論法で導かれる命題は確実に真になる。

帰納的思考はどこまでいっても「かもしれない」である。統計に100%はありえない。有意水準でお茶にごすことしかできないのだ。(←怒られそ)

それでも帰納の方が重宝される。統計学はこれからの最強の学問だ。なぜなら、ぼくらは演繹ではどうしようもない、社会という複雑なモノに立ち向かわなければならないからだ。「我思うゆえに我あり」から「10年後の日本の景気を予測せよ」と言うレベルの話だ。無理。

でも帰納ならまだちょっとは、できる気がする。これまで景気の波を見たりとか。

その希望を大きくしてくれるのがビックデータだ。

100%になれない帰納を、ビックデータは限りなく100%に近づける手段になる。これは帰納の信頼度が演繹に果てしなく近づくということ。

例えば、これまで合理的経済人から演繹してきた経済学が統計を用いた計量経済学に圧倒されつつあることからもうかがえる。

 

演繹を主に発展してきた科学だが、これからは帰納を主に統計学が世界を牽引していくのだろう。

 

 

 

 

 

「成長」という言葉の気持ち悪さは何だ

「成長」とか「自己成長」とかいう言葉、就活を経験してめっちゃ良く聞く気がします。正直気持ち悪い。

それって、気持ち悪いと思う自分がいけないんだろうか。それとも「成長」したがる奴がホントに気持ち悪い奴なのか。


"気持ち悪いと思う俺の問題?"


必死な人や真面目な話に対して「なんかダサい」「気持ち悪い」という感情を持ったり、抵抗感を抱く人は多いのではと思います。
以下のような事は無気力至上主義のような共通する感情に由来しているのではないでしょうか。

・努力は専ら影でする
・中学の英語の授業で発音がめっちゃ良い奴を馬鹿にする
・体育の授業で必死にならない
・「意識高い系」の大学生を馬鹿にする
・友達どうしで政治の話題を避ける
・逆に無気力がかっこいいと思う
・「成長」という言葉がカルトっぽく聞こえる


私は学生時代から無気力キャラで、自分の能力を100パーセント出すことから忌避していました。
そして、その上で「自分は本気出せば凄いんだ」と思おうとしていた。痛いですね😂
私は以前は「成長」という言葉が気持ち悪くて大嫌いでした。そして、「成長」を嫌いだと考えていたのも、無気力キャラな自分の悪い習慣だったのかもしれないと思ってきています。
中二病だと思いましたか?
いえ、大二病です。(違い不明)

https://www.amazon.co.jp/大二病-「評価」から逃げる若者たち-双葉新書-難波-功士/dp/4575154458


「能ある鷹は爪隠す」とも昔から言いますね。
無気力(不真面目)がカッコいいって風潮がある気がするのですが、どこからやってくるのでしょうか?
私の場合は、本気で勝負する事や他人に評価されることに対する逃避の感情だったと思います。


もう一点、考えられるのは「人類みな平等」に対する「甘え」であるとおもいます。

ナンバーワンにならなくていい、オンリーワンになれだぁ?

ふざけるな。
オンリーワンていうのは、その分野のエキスパート、
ナンバーワンのことだろうが。
ドラゴン桜の名言。
平等とか、オンリーワンとか、そういうタテマエに侵されてきた人間の、
要は、競争からの忌避です。ゆとり〜

しかし結局はそのタテマエをどこまで真に受けるか、全て排除するのかという問題に帰結するのだとおもいます。
それが後半に関連します。







"「成長」したがる奴がホントに気持ち悪いのか"

一方で実際、私が「成長」を考えらきっかけとなった、就活というものが気持ち悪いとか不合理だとか批判されたりしますよね。
ワークライフバランスが主張されてきたり、仕事第一の社会も変わりつつある事が背景にあると思います。

就活狂想曲
m.youtube.com



この気持ち悪さの由縁は、人間に対する包括的で単純かつ一方向の評価が由来するのではないかと思います。

まず、「成長」という考えの前提条件として「人間丸ごとの、包括的な価値に優劣がある」という考えがあるということです。
また、どちらのベクトルが「優れている」かというのは評価する者によって様々であり、それを無視してあたかも皆が同じ方向を向いているかの如く述べる「成長」という言葉に原因があるのかもしれません。
例えば、
口数が少ないことを「落ち着いている」と評価するか「陰気だ」と評価するか
同じ事実であってもどちらの方向が良いか、というのは個々人の価値観によって大きく変わってしかるべきです。たしかに、皆が同じ方向を向いている(向かされている)というのは全体主義を彷彿とさせさえします。
さらにはどの能力をどのくらい重視するか、という問題も関わってきます。
例えば、
頭が良くなったけど陰気になったとすると、「人として」成長したでしょうか。

以上のことをまとめると、問題の根源は多元主義的な能力評価の欠如であると言っていいでしょう。
しかし、これを重視しすぎる事は競争の回避、「ゆとり〜」かもしれません。


日本のコミュニティ的企業文化は、個人の包括的評価・価値付けに大いに寄与しているのではないかと思います。

イノベーションに対応できる人事異動やジョブローテーションを前提に「ゼネラリスト」を育成、新卒採用では「ポテンシャル採用」、終身雇用を前提とするための「1億円の買い物」をする。
こういうシステムなら「一芸に長けたスペシャリスト」より、「なんでもできる優秀な人間」が欲しいとなるでしょう。

(理系の世界ではもうちょい状況が違うのかな?)

「ハイパー・メリトクラシー」はこう言った背景を指摘したものではないでしょうか。
ちな、読んだことない。
https://www.amazon.co.jp/多元化する「能力」と日本社会-―ハイパー・メリトクラシー化のなかで-日本の%E3%80%88現代〉13-本田-由紀/dp/4757141041


ダラダラ書き殴りましたが、かつては「成長」が嫌いだったくせに、私は就活中「自己成長」って100回くらい言いました。

確かに結局のところ「出来る奴はなんでも出来るし、出来ない奴は何にもできない」(桐島?)というのが、ある程度真実なのかもしれないと思っています。
だって、そういうシステムで「日本的企業」は世界3位の経済大国を支えてきたわけです。(持論やけどな)

今でも私は包括評価クソッタレ、就活クソッタレ、ナメやがってクソクソクソって思ってますけど
気に入らないなら、自分がそういう社会の中で勝ち上がって変えるしかないんですよね

だからボク、成長するぞ!💫💫
↑オチのつもり