思いつきの掃き溜め

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帰納的思考と演繹的思考

 

「考え方」には大きく二つあります。

結果から分析する「帰納」と、理論を組み立てて推論する「演繹」です。

私は考える事が好きで、妄想癖があるタイプなのですが、どうやら帰納的な思考を好む傾向にある模様です。

 

その特徴としては

・フィーリングを大切にする

・頭ではまとまってるのに言語化出来ないことが多い

・決断力がなく優柔不断

・感情に左右されると判断を誤りがち

・物事の共通点を見つけるのが好き

 

あくまでも私の事例ですので、どこまで「帰納的思考」と関連があるのかは推測でしかありません。

 

信頼の演繹

一方、数学や科学って基本的には演繹ですし(だよね?)、なんとなく演繹の方が信頼度の高い思考であるように思います。

 

その具体的な手順としては…

まず、演繹的思考は基礎となる理論からスタートして枝葉を伸ばしていく。数学ならユークリッドで、哲学なら「我思うゆえに我あり」で、経済学は合理的経済人がその基礎になる。あと、私が専攻してた社会学ではそういった基礎のことをgrounded theoryと呼ぶ。

枝葉の伸ばし方は三段論法を用いる。三段論法とは、「AならばBである」と「BならばCである」の2つの命題から「AならばC」であるという命題を導き出すやつ。こういったプロセスを追求したものが論理学である。このプロセスに欠陥があると「論理が飛躍してる」と言われたり、このプロセスを作り上げる能力があることと「論理的思考力が高い」こととはほぼ同義であったりする。

詳しいことは『論理トレーニング101選』で。おすすめ。

 

こう言う風にそれぞれの基礎から積み上げられた理屈の体系が各々の学問だと、理解していいと思う。

理系の学問は基礎が揺るぎないものが多く、高く高く積み上げられている。対して文系、とくに社会学などはその積み上げが低く、小さいのが林立しているような感じ。

 

 

前近代的(?)な帰納

対して帰納数学的帰納法を高校で習ったように、科学の方面でも帰納法が用いられることもある。あと、帰納の王様といえば統計学である。近年はインターネット、ビックデータの普及によって統計学が注目の的だ。

 

ただし、統計学以前にも、いわゆる「勘」というやつも帰納的思考の産物であると思う。思う、というかそうである。

よく、テレビ番組の「ほこ・たて」みたいなやつで「熟練の職人vs最先端の科学」みたいなのをやっているのを見る。こーいう熟練の職人の持つ「勘」って、一見全然科学的じゃないように見えるし、科学の方を信頼するほうがより理性的であるようにも思う。

一方、人情として職人を支持したいと思ったり、はたまた職人のほうが勝つこともしばしばある。これは、職人の「勘」って、その人の膨大な記憶された経験から割り出された判断だったりする。

これって、統計学が膨大な数量データから判断するのと同じだ。それがなぜ科学と無縁な感じがするのかは、それがただ言語化されぬまま個人の頭の中でぼんやりと存在する「勘」に留まってるからである。

 

なんか、話が逸れたがつまりは経験と言う名のデータを用いて、人は太古の昔から統計学と似たことを頭の中でやってるのだ。もちろん、統計学と違ってその主観から生じる色々な欠点があったりするが。

 

 

 

それぞれのメリットデメリット

 

演繹的思考は信頼度が高い。2つの命題が真なら、3段論法で導かれる命題は確実に真になる。

帰納的思考はどこまでいっても「かもしれない」である。統計に100%はありえない。有意水準でお茶にごすことしかできないのだ。(←怒られそ)

それでも帰納の方が重宝される。統計学はこれからの最強の学問だ。なぜなら、ぼくらは演繹ではどうしようもない、社会という複雑なモノに立ち向かわなければならないからだ。「我思うゆえに我あり」から「10年後の日本の景気を予測せよ」と言うレベルの話だ。無理。

でも帰納ならまだちょっとは、できる気がする。これまで景気の波を見たりとか。

その希望を大きくしてくれるのがビックデータだ。

100%になれない帰納を、ビックデータは限りなく100%に近づける手段になる。これは帰納の信頼度が演繹に果てしなく近づくということ。

例えば、これまで合理的経済人から演繹してきた経済学が統計を用いた計量経済学に圧倒されつつあることからもうかがえる。

 

演繹を主に発展してきた科学だが、これからは帰納を主に統計学が世界を牽引していくのだろう。